2023/03/31
①ビットコインに代表される暗号資産は、米や布と違って、それ自体としては価値がありません。
しかも、
②有価証券ではありませんから、会社や不動産の価値を表している訳でもありません。それにもかかわらず、「通貨」としての性質を認められてきつつあります。
つまり、2010年代~2020年代、ビットコインに代表される暗号資産は、「仮想」であるにもかかわらず「通貨」となっていく途中にあります。
そこで、過去の歴史の中で、どのように「仮想通貨」が導入され定着していったのかを見直して、そこからヒントを得ようというのが、本稿の狙いです。
①米や布のようなそれ自体価値のあるモノでなく②価値あるモノを表してもいない「仮想通貨」として日本初の通貨は、和同元年(708年)に発行された和同開珎と言われています。(和同開珎)
ただ、最初から銅銭に価値があるということが広く知れ渡り、広く流通した訳ではなさそうです。銅銭に価値があるということを知らしめるため、711年、銅銭を蓄えた者には官位を与える旨を規定した「蓄銭叙位令」が定められたほどです。
こうして朝廷は、銅銭が人々に受け入れられるよう力を尽くしたのですが、その後、徐々に銅銭は廃れていきました。和同開珎が発行されて間もないころには銭1文で米2kgが買えたが、9世紀中ごろには買える米の量は100分の1から200分の1にまで激減してしまったと言われています。
つまり、大宝律令を制定し中央集権国家を目指していた700年前後の時期、「仮想通貨」が登場したものの、流通せず、物々交換経済から抜け出せなかったようです。
では、実際に流通した最初の「仮想通貨」は何かというと、平安時代末期に流通し始めた宋銭のようです。この時期の話を少ししてみましょう。
中学生か高校生のころ日本史の教科書を読んでいて、平安時代末期の記述で、どうにも引っ掛かる箇所がありました。
一つ目が、「平氏は、日宋貿易により巨万の富を得た。」というものです。
中には、「中国の王朝が周辺国と行った朝貢貿易では、周辺国からの貢物よりも多くの贈り物を送り返したと言うから、利益を得たのも当然だろう。」と言う方もいるでしょう。
しかし、保元の乱、平治の乱から平清盛が太政大臣になったわずか20年の間で、数百年にわたり日本を支配してきた天皇家、奈良時代以来300年以上にわたり中枢にいた藤原氏を上回る富を得たことを、「貢物より多くの贈り物」だけでは説明しきれないのでは?と思うのです。
二つ目は、宋から輸入した物として、「銅銭」が挙げられていたことです。
現代で言えば、「米国から米ドルを輸入する」というような話ですが、おかしくないですか?
(平清盛像)
ここからは、私の推測です。
●平氏は、日宋貿易で大量に持ち帰った銅銭を通貨として人々に使わせた(まずは、部下への給与として使った)が、その際、宋で用いられている価値とは異なる価値で使わせた。
●例えば、宋では銅銭1枚で米1俵を買えたとしましょう。日本では、銅銭1枚には米5俵の価値があるとして流通させたという感じです。
上の例えを膨らませてみましょう。平氏が米1俵を宋に輸出すると、宋では銅銭1枚を手に入れられます。
その銅銭を日本に持って帰り、「銅銭1枚には米5俵の価値がある」と言って人々に使わせれば、平氏は、米4俵分の利益を得ることができたのです。
つまり、平氏は、宋から持ってきた銅銭を人々に流通させることにより、「通貨発行益(シニョリッジ)」を得た。これこそが平氏の富の源泉だった、というのが、私の見立てです。
証拠はあるのか?と言われると、証拠は無いです。歴史の本は、経済に関する記述が薄いのが問題ですよね。平安時代末期の当時、銅銭1枚で米を何俵買えたのか?などの資料が見当たりませんでした。
中国側の史実を見ると、一応、状況証拠はあります。
●当時の中国では、銅の精錬のために石炭(中国北部で産出していた)を用いていたが、満州系の金王朝との戦いに敗れ中国北部の領土を失ったため、石炭の入手が困難になりました。
●これにより、南宋では、銅鉱石から銅を精錬するためのコストが著しく上昇しました。その結果、銅鉱石から銅を精錬するより、銅銭を潰して銅を得る方が割安になってしまいました。
●そのため、銅銭を潰して銅を得る行為が頻発、南宋の政府は、銅銭を潰して銅を得る行為を厳しく処罰していました。
(12世紀半ばの東アジア、Wikipediaより)
つまり、驚くべきことに、南宋政府は、貨幣を発行することにより「通貨発行益」を得るどころか、「通貨発行損」を重ねていたのですね。(南宋は、中国北部を失った状態を、恒久的な状態ではなく、一時的な状態と考え、通貨制度を変えなかったことが背景にあります。)
平氏は、それを分かったうえで、①自ら銅銭を作って流通させて「通貨発行益」を得るのではなく、②鋳造費用よりも低い価値で流通している南宋の銅銭を日本に持ってきて、市場価値に沿って(あるいは市場価値に通貨発行益を乗せて)流通させ、「通貨発行益」を得る政策を採ったのでしょう。
宋銭が流通し始めるまで、朝廷の財政が絹を基準として賦課・支出を行う仕組みとなっていたように、絹が通貨として機能していたということです。
そのため、絹は、衣服の素材としての価値に加え、通貨としての価値が上乗せされて、評価されていた訳です。いわば、「のれん」が乗っていたようなものです。
しかし、宋銭が流通しはじめることで、絹の持っていた通貨としての価値が引きはがされることになってしまい、絹の価値が下落しはじめました。
宋銭を流通させようとする平氏と、反対する後白河法皇の確執が深まった1179年、法皇の側に立っていた松殿基房や九条兼実が「宋銭は朝廷で発行した通貨ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである」として、宋銭の流通を禁ずるように主張したという記録があります。
かほどに、平氏の通貨政策は、従来の権力者たちが大量に所有していた絹の価値を下落させることによって、従来の権力者の富を奪っていったのです。
「奢れるもの久からず」とか、平清盛は東大寺を焼き討ちにした祟りで熱病になったとか、平氏は酷い言われようをしてきましたが、私の見立てが正しければ、平氏の通貨政策は、800年以上前とは思えないほど巧妙だったと思うのです。
ひるがえって、21世紀の暗号資産に関する状況を見ると、従来の権力者たちが、自国領内でビットコインなどが流通するのを見過ごすだろうか、通貨発行権をそう簡単に手放すだろうか、という懸念はやはり残るのです。